小幡和輝「学校は行かなくてもいい」を読んでみて、元不登校児が思ったこと

学校は行かなくてもいいロゴ

文部科学省の学校基本調査によると、全国の小中学校には13万人の不登校の子どもがいます(2016年調べ)。

かつて、わたしもその中の1人でした。

小幡和輝さんの「学校は行かなくてもいい」は、不登校の子どもと親御さんたちへ向け、「正しい不登校のやり方」を教えてくれる本です。

小幡和輝「学校は行かなくてもいい」を読んでみて、わたし(元不登校児)が思ったことをまとめました。

小幡和輝「学校は行かなくてもいい」について

「学校は行かなくてもいい」は、10年間の不登校経験がある小幡和輝さんが、2018年7月に出版された本です。

日本の小中学校の不登校生徒は約13万人(2016年度)。保護者や教師に「なぜ?」と問われても、自分の感情をうまく表現することができない子どもたちは、押し黙って引きこもるか、嫌々学校に行くしかない。
一瞬でもそれから解放されるのが夏休み。だが、明けて9月1日は子どもたちの自殺が一番多い「危険日」でもある――。
著者は約10年の不登校ののち、定時制高校から(正当な)“裏技”を使って国立大学に進学した。また、高校3年生のときに起業、いまは学生にして社長でもある。
そんな著者が、不登校の子どもたちに送るメッセージは、「学校は行かなくてもいい」という選択肢があることと「正しい不登校のやり方」だ。
本書では、途中に漫画を交えて著者の体験を紹介する。また、同じように不登校を体験したが今は起業している“先輩たち”の体験談(家入一真氏、吉藤オリィ氏ほか)や、著者のブログに投稿された不登校経験者たちの声も多数収録した。
「不登校でもこんな生き方があるよ」ということを知ることで救われる子どもたちがきっといる。もちろんそれは保護者も同じだと思う。ぜひ親子で読んでほしい一冊です。(amazon商品ページより引用)

この本を知ったきっかけは、Twitterで流れてきた「#不登校は不幸じゃない」というムーヴメントでした。

不登校は不幸じゃないロゴ

9月1日、夏休みが終わる日に子どもの自殺が増えることを受け、「死ぬくらいなら学校に行かなくていいよ」というメッセージを伝えるため、8月19日に全国100ヶ所でイベントを行うというものです。

参考:#不登校は不幸じゃない 8月19日全国100ヶ所でイベントをやりたいです。(小幡和輝オフィシャルブログ)

参考:学校がイヤなら逃げてもいい。8月19日、全国100か所で 交流イベント「 #不登校は不幸じゃない 」(ハフィントンポスト)

小幡さんは2017年にクラウドファンディングで資金をつのり、「不登校から高校生社長へ」という本を自費出版されています。

これを本屋の流通にのせ、もっとたくさんの不登校の子やその保護者たちに届くようにするために、「学校は行かなくてもいい」は作られたそう。

不登校を扱った本は世の中にたくさんあります。だけどそれらの多くは、そうした問題に詳しい教育関係者だったり、不登校からわが子を立ち直らせた親の話だったりして、「こうすれば不登校じゃなくなりますよ」といったハウツー本のようになっています。

僕は「不登校じゃなくなる」というより、「不登校でも大丈夫な生き方」を伝えたいと思っています。(p5)

この本は、今現在不登校の子どもとその保護者に向けて、「不登校でも大丈夫な生き方」つまり「不登校は不幸じゃない」というメッセージをとどけるものです。

たしかに、世の中には「不登校から立ち直らせるためのアドバイス」的な本が多いですね。

この本は不登校の当事者が書いた本であり、小幡さん以外の不登校経験者の体験談もたくさん載っているので、当事者に寄り添った内容になっていると思います。

キャッチコピーは「親子で読みたい『正しい不登校のやり方』」

つまり、最初に本を手に取るのは不登校の本人ではなく保護者であるはずなので、「不登校の子ども」と「不登校の子どもを持つ親」の両方に向けて書かれているのが特徴です。

読もうと思ったきっかけ

「#不登校は不幸じゃない」のハッシュタグを追ううちに、小幡和輝さんが出版される本にも興味が湧いてきました。

わたしは中学校2年から不登校になり、定時制→通信制高校に4年間通った経験があります。

わたしが不登校だったのはすでに20年近く前のことで、今とはかなり状況が違うと思います。

小幡さんは94年生まれなので、まだ20代前半の「今どきの若者」

現代における不登校をとりまく環境や生の声、体験者たちの思いを知りたいと思い、本を手に取りました。

「学校は行かなくてもいい」を読んでみて思ったこと

学校は行かなくてもいいロゴ

学校に居場所がないということ

最初に保護者の方に言っておきたいのは、何がつらいって、それは自分が「不登校」であることではなくて、「学校に居場所がないこと」だ。僕もそうだったからわかる。

それでも親は「学校に行け」と言うし、先生は「学校に来なさい」と言う。それは一体誰のための言葉なのだろうかと僕は思ってしまう。(p22)

いきなり共感できすぎる言葉が飛び込んできました。

もし親の立場だったら、「自分の子どもが学校に行けないこと」=「不幸(よくないこと)」のように感じてしまうかもしれません。

でも不登校の本人にとってつらいのは、自分が不登校であることではないのです。

この本の体験談の中にも、「学校に行きたくないわけじゃなくて、むしろ行きたかった。でも体が動かなかった」という人が何人がいました。

わたしの場合は、「不登校である自分」=「親やまわりの期待に応えられないこと」がつらかったです。

居場所がないことの苦痛は、わたしにもよくわかります。

わたしは中1の後半から、同じクラスの一部の男子と一部の女子に無視や嫌がらせを受けました。

そのときはクラスに仲のいいグループがあったし、部活にも友だちがいたのでまだ大丈夫だったのですが、中2になってそのバランスは崩れ去ってしまいます。

  • クラスがかわったこと
  • 部活でレギュラーを外されたこと
  • 学年1位をとったプレッシャー
  • インターネットを始めて、外の世界に居場所ができたこと

これらの原因が一気に重なり、中2の夏休み明けから学校へ行くことができなくなりました。

小学校までのわたしは優等生でした。いわゆる「勉強も運動もできる子」で、クラスでも目立つ部類の人間。

その狭い世界から、中学校に上がって自分よりレベルの高い人間がたくさん出てきて、それまであった自信がことごとく崩壊してしまったのです。

「それまでの学校における自分のポジション(居場所)が揺らいだ」とでも言えるでしょうか。

ただ、不登校の原因をはっきりと「これだ」と名言化できる人は多くない、とこの本にもあったとおり、わたしも「今考えるとこうだったかもしれない」というだけで、当時ははっきりとした原因はわかっていませんでした。

学校の役割について

学校が持つ役割は大きく分けてふたつだと思っている。ひとつは学問を勉強する場所としての役割。(中略)

もうひとつの役割は、同世代のコミュニティ作りと人間関係を学ぶ場所だということ。(p30〜32)

これはまったくの同意です。

逆に言えば、このふたつの役割さえクリアできれば、それこそ「学校へは行かなくてもいい」んじゃないかと、わたしも思っています。

勉強については、20年前と比べて今はかなり選択肢が広がっているはず。

ネットを使って、中学までの学校で習う内容をまんべんなく勉強できるサイトや教材もたくさんあります。

また、興味のある分野だけを集中的に勉強することもできるでしょう。

たとえば英語、歴史、漢字、数学などなど…資格もとれるし、今ならプログラミングなどもいいと思います。

コミュニティ作りに関しては、フリースクールや自治体の適応指導教室などがありますね。

小幡さんの場合、いとこのお兄さんも不登校でよく一緒に遊んでもらったり、ゲームが好きだったのでゲーム友達がいたり、イベントで出会った学校以外の知り合いと交流があったりと、学校の外に居場所があったことがよかったと書かれています。

これは本当にそうで、わたしも学生の頃は友達がほしくてたまらなかった。

ネットで仲良くなった同世代の子はたくさんいたけれど、リアルで話せる友達がいなかったのです。結果、中学生の間はほとんど引きこもりの状態でした。

不登校の子ども、そして不登校の子を持つ親御さんたちには、このふたつの問題にぜひ立ち向かって欲しい。

学校に行かないことが「悪」だと苦しむよりも、社会に出てから困らない程度の知識を身につけること、そしてどこかのコミュニティーに居場所を見いだし、友達をつくること。

それが大事なんじゃないかと思います。

「義務教育」の意味

義務教育の義務とは、「子どもは小中学校に通わなければならない義務がある」という意味じゃない。市町村が区域内に学校を作らなければならないという義務のことであり、適切な年齢の子どもを持つ保護者は子どもに教育を受けさせる義務があるという意味だ。

親にとっては「教育を受けさせる義務」イコール「学校に行かせる」ことだけど、それは教育を受ける場所が学校しかないと考えているからだと思う。(p35)

ここの勘違いというか思い込みは本当に多くて、実際にわたしもそう思っていました。

子どもにとって、学校へ行くことは義務ではありません。

学校には行ってもいいし、行かなくてもいい。自分で選択していいのです。

まずはこのことを広く知ってもらいたいですね。

自分を認められるかどうか

僕は、自分がすごく弱い人間なんだということを、わりと早いタイミングで認めることができた。それがすごくよかったと思っています。

それを受け入れられなくて苦しんでいる人ってたくさんいるじゃないですか。自分自身の仲から湧き上がってくるのかもしれないし、外からの圧力の場合もあると思うけれど、「もっと強くならなきゃいけない」、「自分はもっとできるはずだ」って考えてしまう。(p46)

CAMPFIRE代表取締役の家入一真さんの体験談の中から。

わたしの場合はまさにこれで、ずっと苦しかった原因は「不登校である自分を受け入れられなかった」ことに尽きると思います。

今でこそ夫に話したり、こうしてブログに書いたりできるようになりましたが、「不登校=ダメなこと、恥ずかしいこと」という思い込み・呪縛にずっと苦しめられてきました。

まずは、不登校である自分を受け入れてあげること。そして「それでもいい」と認めてあげること。

これは本当に大事なことだと思います。

「普通」になりたかった

「みんなと同じレールの上を走りたくない」という言葉をよく聞くけど、僕はどちらかというと同じレールの上を走りたくて、だから学校にはめちゃめちゃ行きたかったと思います。だけど外れざるを得なかったというか…。(中略)

わりと普通に生きたかったというのがあって、もし普通に行っていたら、なんかわからないけど代理店とかで働いてるんじゃないかな。あったはずのもうひとつの人生、みたいなことを考えたりしますよ。(p47)

上の話に通じますが、「不登校=異端」ととらえていたために、わたしは「普通」に異常な憧れがありました。

「なぜ自分は普通に生きられないんだろう?ほかの子と同じようにできないんだろう?」と悩み続けました。

そして、「もし普通に学校に行っていたら」ということもよく考えます。今でも。

みんなと同じ制服を着て、一緒にお弁当を食べて、部活をやって、くだらない話をして帰って、休みの日には一緒にでかけたりしたかった。

わたしにとって二度とかなわない「青春」の姿です。

親が示すべき態度

僕の場合は親がある程度のところであきらめてくれたことがよかった。あきらめるといっても、完全に見捨てるっていうことではないから悪いことじゃないし、「あなたはあなたの人生を生きなさい」という態度で、最終的に受け入れてくれたのがすごくよかったなと思っています。(中略)

結局のところ、何が正解なんて答えはなくて、ひとつだけ言えるとすれば、とにかく大人にできることは、「選択肢を出してあげること」だと思うんです。

こういう生き方もあるよ、不登校になったけど、こういう生き方をしている人がいるし、こういう成功をしている人もいる、いろんな人がいて、いろんな人生があって、だからあなたも自分の人生を生きなさい、ということをとにかく提示することしかないと。(p48)

不登校の子を持つ親への文章ですね。

不登校だった立場からすると、親に願うのはまさにこういう態度だと思います。

実際、「学校へ行きなさい」という親がほとんどです。それが正しいことなんだと、それは子どものためと思っているのもあるし、親としての体裁もあるでしょう。

だから、「あなたの好きにやってみなさい」という態度を示すのはとても勇気がいることだと思います。

でも、言い換えればこれは「不登校である自分を肯定してくれた」ともとれます。わたしは、こう言ってほしかった。

わたしの親は力づくや言葉でなど、あからさまに「学校へ行け」とは言いませんでした。そのこと自体はおそらく少数派でしょう。

でもあるとき、わたしのいないところで「私たちの育て方が悪かったのかな」と言っているのを聞いてしまったのです。わたしはこの言葉を、一生忘れることはないでしょう。

「わたしは両親の望んだ人間になれなかったんだ。今のわたしは間違っているんだ」と、その瞬間に刷り込まれたから。

子どもにとって、親の影響は計り知れないほど大きなものです。

子どもが今何に苦しんでいるのか、今何を求めているのかを、子どもの目線に立って考えて欲しいと切に願います。

成功体験を積む

僕は無責任に「学校に行かなくてもいい」と言うつもりはない。実際、学校に行かないことだけを見ればマイナスだと思うから。

それでも学校に行かないのなら、学校以外の時間をどう使うかが重要になる。

「学校へは行ってないけど、自分はこんなことができる!」

そんな人に誇れるものを作ることで、それが自信につながるし、それはそのまま将来の仕事につながるかもしれない。(p70)

小幡さんの場合、ゲームと囲碁にハマったことでたくさんの友人に恵まれ、また大会に出て成功体験を積んだことが、自己肯定感を高めてくれたそう。

とくに10代のころの経験は影響が大きくて、好きだと思うことを突き詰めてみれば、将来につながることも見つけやすくなると思います。

わたしの場合、引きこもりの時期を救ってくれたのは音楽でした。

聴くほうもどっぷりでしたが、自分で詩を書いたり曲を作ったり歌ったりしたことで、自分自身の抑圧された部分を吐き出すことにもつながったし、人前で歌って褒められたことは自信をつけてくれました。

中学生の頃はリストカットもしていたし、毎日明け方まで眠れなくて「死にたい」とばかり思っていたし、あの時期自分に音楽がなければ、本当に今ごろわたしはこの世にいなかったかもしれません。

「学校へは行ってないけど、自分はこんなことができる!」

そんなものをひとつでも見つけられたら、それは必ず自信になり、自分を救ってくれるとわたしは思います。

「みんなやるからやる」という風潮

子どもの頃から「嫌なことでもやり続けることが正しい」という価値観を植え付けられているのではないかということだ。「学校」はその典型かもしれない。嫌でも行かなければならない場所だと思われているのだから。

ほかにも、人より勉強ができるのに自分だけ先には進めないし、スポーツが苦手なのに課題ができるまでやらされるし、給食に嫌いな食べものが出たらそれを食べ終わるまで休み時間にならないし…。

それが「合わない」からといって学校を休もうとすれば、「みんな来てるんだから、ずる休みするな!」といじめられる。(p112〜113)

これは現代のブラック企業にも通じる話であり、日本人特有の性質ではないでしょうか。

「みんなが行く場所だから、たとえ嫌でも行かなければならない」

「みんなやってるんだから、たとえ嫌でもやらなければならない」

そんな呪縛に縛られている人が本当に多い。

そもそも、1人ひとり得意なこと・苦手なことは違うのだから、すべて足並み揃えるなんて無理な話です。

わたしは小学校では優等生でしたが、正直当時の勉強はカンタンすぎて、真面目に授業を受けるのが苦痛でした。

「ノートをとらなくたって、宿題をやらなくたって、テストで100点はとれるじゃん」そんな嫌な子どもでしたね。苦笑

社会に出てからも「人に合わせる」ことができず、けっきょく今はフリーランスとして自由に仕事をして暮らしています。

でも、合わないなら合わせなくてもいいんじゃないでしょうか。

自分が無理をせずいられる場所があるなら、それを選んだって、他人にどうこう言う資格はないはずです。

中学生の頃、ネットで自分のサイトを作って不登校に関する詩を載せたら、友人(だった人)に「不登校を正当化するな」というコメントをつけられました。

不登校が必ずしも正しいとは思いません。でも、選択肢としては有りだと思っています。

もし不登校を選んだとしても、自分の人生は続いていきます。

そのとき学校から逃げたことがよかったのか、正しかったのかは、その後の自分の生き方によって決まるのではないでしょうか。

学校に求める理想像

では、これからの学校に求められる役割は何だろう。(中略)

僕の意見は、多くの学校がより専門学校に近づいたものになっていくといいな、ということ。スポーツが得意な子、手先が器用な子など、それぞれに得意なことや好きなことがあるのだから、それをとことん伸ばしてあげられる場所になってほしい。

これまでの学校は、平均的な底上げを目標にしてきた。みんなが全教科50点じゃなく60点を取れるように。でも、これからの時代は”平均的な人材”では生きていけない。「代わりがきく仕事」は、費用があまりかからず何時間でも働けるロボットに代用されていくからだ。(中略)

今の学校が「個人の才能を最大限に発揮できるようにサポートする場所」だったとしたら、僕も行ってみたかった。(p114〜115)

理想論というか究極ですが、「学校」が1人ひとりに寄り添った教育ができる場所になれば本当にいいですよね。

わたしが20代のころに、高校で「総合学科」が登場しました。(※もっと前からあったかもしれませんが、田舎だったので)

1年次のうちはさまざまな分野を勉強し、2・3年次からは自分の興味のある・好きな分野をより深く学んでいくというもので、「こんなところで学んでみたかったな」と思った記憶があります。

小中学生の頃だと、自分が何が好きで何が得意かわからない…ということも往々にしてあると思うので、まずはさまざまな体験ができるというのも大切だと思います。

そのうえで「平均」に押し込めず、その子の個性を伸ばしてあげられる教育システムがあれば、もし自分が親になっても不安なく学校に通わせられるような気がします。

何より大切なのは「命」

不登校の先輩として、言いたいことを言わせてもらったけど、どうだったかな?

これを読んで、もし学校に行かない選択をするとしても、実際に「学校に行きたくない」って親に打ち上げるのはすごく勇気がいると思う。怒られるかもしれないし、悲しい思いをさせるかもしれない。

でも、学校なんかより大切なことがある。それはキミの「命」だ。本当につらいのなら、勇気を出してほしい。この本を一緒に読んで、親と真剣に話してみてもいいと思う。

最初は怒られるかもしれないけど、親は絶対キミの味方のはずだ。怖がらず自分に正直になったほうがいい。

最後にもう一度言っておきたい。

「学校は行かなくてもいい」と。(p127)

本の締めです。

「死にたい」とばかり思っていた当時、自分が本当に死んだら、親やまわりの人間がどれだけ辛く、悲しい思いをするか、わたしには想像できていませんでした。

いわば、自分ばかりが辛いと思っていたわけです。

しかし、20年のときを経て思うことは、「自殺だけは絶対にしてはならない」ということ。

学校という狭い社会の中で潰されたからといって、その人自身がダメなんていうことは絶対にありません。

死んでしまったら、すべてが終わり。取り返しがつかないのです。

まずは怖くても、自分や親と向き合いましょう。そして、このさきのことを真剣に考えましょう。

不登校だからって生きていけないわけじゃない、不登校だから死んでしまうわけじゃない。

今は死にたいほど辛くても、どこかに必ず居場所はあります。それを見つけに行きましょう。

まとめ:不登校の子どもとその親すべてに読んでもらいたい

この本を読んでみて、20年間フタをしてきた自分の不登校という経験にあらためて向き合うことになりました。

うんうん、そうだった、とうなずく部分が多すぎて、読みながら何度も涙を流しました。

本の中のたくさんの体験談を読んで、辛いのは自分だけじゃないんだと知れるだけでも、当事者には大きいと思います。

不登校の子どもとその親すべてに読んでもらいたい良書でした。

薄めで30分ぐらいで読了できるので、子どもにも負担は少ないはずです。

「学校へは行っても、行かなくてもいい」

もしもわたしがこの先親になり、さらに自分の子どもが学校に行きたくないと言ったら、わたしはこの本とともに、この言葉を贈りたいです。